スレーター行列式はスピン固有関数なのか?その必要性と合わせて解説します。

スレーター行列式はスピン固有状態なのか

多くの分子では1重項の状態が普通で、スピン磁気モーメントを持ちません。しかし、一般的には単純に逆向きのスピンを集めるだけでは1重項状態は作れません。1重項状態を作るにはスピン状態を適切に取り扱う必要があります。

一方で、スレーター行列式を利用して機械的に作成した閉殻分子の電子状態は問題なく1重項のスピン固有関数になります。なぜかわかりますか?

このページでは閉殻分子のスレーター行列式がスピン1重項の固有関数になっていることと、そもそも、なぜスピン固有関数になる必要があるのかを解説します。

目次

【前提知識】スピン1重項の作成は工夫が必要

スレーター行列式がスピン固有関数になっていることを紹介する前に、前提知識として通常、1重項のスピン固有関数は単純に$\alpha$スピンと$\beta$スピンをもってくるだけでは作れないことを簡単に説明します。

基本的な内容なので、しっかりおさらいしていきましょう。2つの電子があるとき、$\alpha$スピンと$\beta$スピンを1つずつ持ってきた電子状態$\Ket{\uparrow\downarrow}$は$\hat{S}^2$の固有関数になっていません。

単純に$\alpha$スピンと$\beta$スピンを並べるだけでは1重項は作れません。

詳しくはこちら

$\hat{S}^2=\hat{S}_+\hat{S}_{-}-\hat{S}_z+\hat{S}_z^2$を利用すると、

$\hat{S}^2\Ket{\uparrow\downarrow}=\hat{S}_+\hat{S}_{-}\Ket{\uparrow\downarrow}-\hat{S}_z\Ket{\uparrow\downarrow}+\hat{S}_z^2\Ket{\uparrow\downarrow}$$=\Ket{\uparrow\downarrow}+\Ket{\downarrow\uparrow}$になるため、$\Ket{\uparrow\downarrow}$は固有関数になっていません。

結論としては、$\Psi=\frac{\Ket{\uparrow\downarrow}-\Ket{\downarrow\uparrow}}{\sqrt{2}}$という風に$\Ket{\uparrow\downarrow}$だけでなく、$\Ket{\downarrow\uparrow}$も利用することで$\hat{S}^2\Psi=0$となる1重項状態$\Psi$を作ることができます。

このように複数の電子で$S^2=0$の1重項状態を表すには適切にスピン状態を足し合わせる必要があります。

閉殻分子のスレーター行列式はスピン1重項状態になっている

さきほど複数の電子で$S^2=0$の1重項状態を表すには適切にスピン状態を足し合わせる必要があるとしましたが、スレーター行列式で作った電子状態はスピン固有関数になっているのでしょうか?

スレーター行列式は機械的に電子状態を作るけど、スピン固有関数になっているのかな?

酸素分子や金属錯体などを除き、ほとんどの分子は定常状態で$S^2=0$の1重項状態です。スレーター行列式はこのような分子を1つのスレーター行列式で表した場合、$\Phi$を$\Phi=\frac{1}{\sqrt{N!}}\begin{vmatrix}\chi_1(x_1)&\cdots&x_N(x_1)\\\vdots&\ddots&\vdots\\\chi_1(x_N)&\cdots&\chi_N(x_N)\end{vmatrix}$と行列式を用いて機械的に電子状態を表しますが、これはきちんとスピン固有関数になっているのでしょうか?

結論としては、$\alpha$スピンと$\beta$スピンが同じ空間の分子軌道を利用する場合、閉殻分子のスレーター行列式で表した$\Phi=\frac{1}{\sqrt{N!}}\begin{vmatrix}\chi_1(x_1)&\cdots&x_N(x_1)\\\vdots&\ddots&\vdots\\\chi_1(x_N)&\cdots&\chi_N(x_N)\end{vmatrix}$は$S^2=0$のスピン固有関数になります。

そのため、RHFやDFT計算において単一のスレーター行列式で表された行列式で閉殻分子の量子化学計算を行った場合は、その電子状態はスピン固有関数になっています。

証明はこちら

$\Psi=\frac{1}{\sqrt{N!}}\sum_i^{N!}(-1)^{P_i}P_i\{\phi^\alpha_1(1)\phi^\beta_1(2)\phi^\alpha_2(3)\cdots\}$

$\hat{S}^2=\hat{S}_+\hat{S}_{-}-\hat{S}_z+\hat{S}_z^2$ですが、$\hat{S}_{\pm}$を$\alpha$、$\beta$スピンが入っている軌道に作用させると、パウリの排他原理からその寄与はゼロになります。そのため、$\hat{S}_+\hat{S}_{-}\Psi=0$です。

さらに、閉殻なので$\hat{S}_z\Psi=0$であるため、$\hat{S}^2\Psi=0\Psi$となります。つまり、閉殻の電子状態$\Psi$は固有値$0$の$\hat{S}^2$の固有関数になっています。

一方で、例えば酸素1重項状態をRHFやDFTで計算する場合はどうでしょうか?こちらは$S_z=0$を満たす単配置の電子状態は作ることはできますが、閉殻でない分子の1重項状態($S^2=0$)を作るには2つの電子状態の重ね合わせが必要になります。

単配置のDFTでも1重項の酸素分子の計算はできますが、スピン固有関数にならないので、注意です。

なぜスピン固有状態である必要があるのか

そもそもなぜ電子状態はスピンの固有状態である必要があるのでしょうか?その理由は考えている対象系を回転させても(あるいは、違う角度から見ても)状態(ハミルトニアン)は変わらないという等方性があるためです。

回転させてもハミルトニアンが変わらない(外から一方向に磁場などがない)場合、角運動量$\boldsymbol{L}$が保存量になります。そのため、系に等方性がある場合、電子状態は角運動量演算子$\hat{L}^2$の固有関数になっている必要があります。

スピンは角運動量の一形態であるので、電子状態$\Psi$はスピン$\hat{S}^2$の固有関数になっている必要があるのです。

より詳しい説明はこちら

任意の回転操作でハミルトニアンが不変であることから$[\hat{L},\hat{H}]=0$である必要があります。これは、$\alpha$だけ回転させる演算子が$\hat{U}=\exp(-i\alpha\frac{\boldsymbol{n}\cdot\hat{L}}{\hbar})$であることによります($\boldsymbol{n}$は回転軸の方向ベクトル)。

そのため、$\hat{L}$は$\hat{H}$と同時に対角化可能であり、期待値も$\frac{\text{d}}{\text{d}t}L=\frac{\text{d}}{\text{d}t}\Braket{\Psi|\hat{L}|\Psi}$$=\Braket{\frac{\text{d}}{\text{d}t}\Psi|\hat{L}|\Psi}+\Braket{\Psi|\hat{L}|\frac{\text{d}}{\text{d}t}\Psi}$$=\frac{i}{\hbar}\Braket{\Psi|[\hat{L},\hat{H}]|\Psi}=0$と、時間に対して不変です。

また、もし$\hat{L}\Ket{\Phi}=\lambda_1\Ket{\Psi_1}+\lambda_2\Ket{\Psi_2}$と固有関数になっていない場合、角運動量$\boldsymbol{L}$の観測値(例えば磁気モーメント)が確率$|\lambda_1|^2$と$|\lambda_2|^2$で揺らいでしまいます。

まとめると、「対象系の回転対称性から$[\hat{L},\hat{H}]=0$が成り立つので、$\hat{L}$は$\hat{H}$と同時対角化可能であり、電子状態は観測可能量$\hat{L}^2$の固有状態である必要がある」ということになります。

(量子的な効果から、角運動量$\boldsymbol{L}$の各成分$L_x,L_y,L_z$は同時に決定できないので、角運動量$\boldsymbol{L}$の代わりに、角運動量の大きさ$\boldsymbol{L}^2$を利用します。)

まとめ

このページでは、電子状態がスピン固有関数になる必要性と量子化学でよく出てくるスレーター行列式が閉殻分子のスピン固有関数になっていることを解説しました。

量子化学計算において閉殻分子を取り扱う限りでは、スレーター行列式で自動的にスピン固有関数になるので問題ありませんが、開殻分子の計算をする場合はMSCSF法などを用いてスピン固有関数となる電子状態を取り扱う必要があります。

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