「電子のスピン」と聞いて皆さんはどのようなイメージを持ちますか?UpとDownがあるらしいけど、電子に上下なんかある?普通の分子は閉殻だからスピンなんて日常にないよね?など、つかみどころが無いように感じていませんか?
スピンはミクロな世界にだけ登場するため、縁遠いものと感じやすいですが、実は電子スピンは身近な避難誘導の表式に使われています(写真付きで紹介)。
このページでは、スピンについて化学者がよく感じる疑問点について解説していきます。
【疑問1】Up,Downの軸はどこ?
スピンはUp、Downの2つの状態をとりますが、簡単に言うと、Up、Downとは観測した軸に対する上下です。
電子のスピン状態を知る方法として空中を飛行する電子に対して磁場をかけることで電子の飛行先を2つに分裂させることが利用できます。

有名なシュテルン-ゲルラッハの実験です

SG装置によって、飛行先で電子を捕獲したときにスピンがUp、Downのどちらかであったかがわかります。電子のUp、Downとはこの磁場方向に対する上下です。

磁場がない時はスピンはどこを向いているの?
磁場がない環境ではスピンはどこを向いているかは全く分かりません。磁場をかけてスピン状態を観測した際に状態が確定し、電子スピンがUpかDownのどちらの状態であったかがわかるのです。
そのため、磁場がない環境ではスピンの方向はランダム状態、さらに言えばボヤっとした状態にあります。

(左:ランダム、右:ボヤっとした雲状)
【疑問2】化学、日常にはどのように影響しているか
化学において電子のスピンが表舞台に立つことはあまり多くありません。その理由は通常の状態において、分子は2つの電子がUpとDownスピンでペアを作ることによってスピンが相殺されるためです。
そのため化学でスピンの存在が目に見えて登場するシーンは限られます。
- 金属錯体や酸素など、基底状態でもスピンが相殺されない電子を持つ場合
- 光などにより、UpとDownのスピン均衡が崩れた励起状態になった場合
金属錯体や酸素など、基底状態でもスピンが相殺されない電子を持つ場合
多くの分子は通常、Up、Downのスピンがペアで分子軌道ごとに入るため、電子スピンによる磁気モーメントを持ちません。
例外は酸素分子や金属錯体です。
酸素分子はエネルギー準位が同じ(縮退)2つの軌道に2つの電子がスピンをそろえて入るので(フントの規則)、スピンによる磁気モーメントを持ちます。

金属錯体もエネルギー準位が近い軌道を持つため、電子数次第ではスピンによる磁気モーメントを持ちます(例えばK$_4$[Mn(SCN)$_6$]は2.18$\mu_B$の磁性を持ちます)。このように金属錯体は磁気モーメントを持ち、磁石などで引き寄せられる性質を持つものが多くあります。

金属錯体で永久磁石が作れるか?

金属錯体でも永久磁石が作れるの?

スピン角運動量相互作用を上手く利用できると永久磁石を作れる可能性はあります。
スピンは通常、磁場がない環境ではどこを向いているかわからないので、それだけでは永久磁石にはできません。しかし、もし軌道角運動量を持つ錯体を結晶化できれば、スピン軌道相互作用が働くことで、スピンを一定の方向に向かせられるので永久磁石になる余地があります。
光などにより、UpとDownのスピン均衡が崩れた励起状態になった場合
光などを分子が受け、励起状態になった場合もUpとDownのスピン均衡が崩れることがあります。
通常、光による励起では分子のスピン状態は変化しません。つまり、基底状態でスピン多重度を持たない(UpとDownの均衡がとれている)$S^0$状態からは、同じくスピン多重度を持たない$S^1$状態へ光励起するのが基本です。

これはスピン禁制と呼ばれます
しかし、様々な原因(スピン軌道相互作用など)によってスピン禁制が崩れ、スピン多重度を持つ励起状態$T^0$状態になることがあります。
$T^0$状態から$S^0$へ戻る際に放たれる光は「りん光」と呼ばれ、スピン反転を伴うことから$S^1\to{S}^0$の遷移に比べ、時間がかかります。

$S^0$、$S^1$の$S$はSinglet(1重項)、$T^0$の$T$はTriplet(3重項)の頭文字だよね。
このりん光は日常でも様々利用されており、例えば、JIS Z 9103には蓄光安全標識として、「りん光材料を用いた安全標識。」と定義されており、避難誘導システム(商業施設が停電したときなどの際に避難を容易にする看板など)へも利用されています(JIS Z 9095)。


JIS Z 9095では60分後のりん光光度の下限が規定されています。
ほかにも暗闇で光るジグソーパズルなどの蓄光顔料(ZnSやCaS、SrAl$_2$O$_4$など)が塗られた雑貨でも利用されています。

スピン禁制を利用した長い発光は身近に活躍しているんだね。
【疑問3】なぜ1/2なのか
実験の結果、$z$軸方向に磁場をかけているSG装置に対して$z=0$で入射された電子が$\pm{z}$方向の2つに分裂しました。このことから、電子スピンに関する2つの重要なことが分かります。
- $z=0$から$z\ne0$の点まで電子が曲がっている
- 電子は磁気モーメント(つまりスピン角運動量)を持つことがわかる。
- $z=\pm{z}_0$の2つに分裂した
- スピンの状態数は2つあることがわかる

2つに分裂するならスピンの量子数は$+1,-1$でもいいんじゃないの?

下で解説しますが、量子数は1ずつ増える必要があるので、電子スピンの量子数は$+\frac{1}{2},-\frac{1}{2}$になります
角運動量の前提条件(交換関係$[s_x,s_y]=is_z$を満たすこと)によってスピンは次の性質を満たす必要があります。
- 固有値は$1$ずつ増えること
- 固有値として$+\lambda$を持つ場合は、$-\lambda$も固有値として持つこと
証明はこちら

スピンの交換関係について

$[s_x,s_y]=is_z$は角運動量での交換関係$[l_x,l_y]=il_z$と同じなんだね。

有名な著書であるランダウの理論物理学教程では、スピン演算子の交換関係について以下のような記載があります。
スピン角運動量の場合には、スピン演算子が働くのは座標ではなく、《スピン変数》であるため、(中略)、無限小回転の演算子を座標系の回転として一般的な形で考察しなければならない。無限小回転を順次にx軸とy軸の回りに行い、そのあとでこれと同じ軸の回りに逆の順序でそれを行うと、(中略)、これら2つの演算の差は、z軸の回りに無限小回転することと同等である。(中略)したがって、それ(角運動量演算子の交換関係)は当然スピン演算子に対しても成り立つ筈である。
$[\hat{s}_y,\hat{s}_z]=i\hat{s}_x,[\hat{s}_z,\hat{s}_x]=i\hat{s}_y,[\hat{s}_x,\hat{s}_y]=i\hat{s}_z$
ランダウ=リシフッツ理論物理学教程 量子力学Ⅰより
この角運動量に関する一般的な性質によって、2つの状態をもつスピンの量子数は$\pm\frac{1}{2}$になる必要があります。

スピンの状態が2つであるということが非常に重要です。
まとめ
スピンはミクロな世界にだけ登場するため、イメージが湧きにくいことが多いですが、実はスピンを利用したものは避難誘導の表式などに使われており、以外にも身の回りにあふれています。
スピン状態は観測するまではどちらを向いているか全くわかりませんが、観測したら2つの状態しかないという量子力学の本質が現れるのがスピンです。
スピンは最初に学習したときは全くイメージが湧かず、時間が経つとともに、「閉殻だったらSinglet、たまにスピン反転してTriplet」など、分かった気でいがちですが、たまにはスピンについて熟考してみましょう。